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ある事柄について考える時、それは自分自身というフィルターが既にかかってしまっているのであり、普遍的な「曇りなきまなこ」などというのは存在しない。
そういった意味で『もののけ姫』のアシタカは少年神格視の要素を強く負わされているのかもしれない。実際に彼がどうであるかといった事よりも、少年が自身の清さを信じているといった「清さ」においてである。

己が清いと信じている少年ほど美しい目をしている者はない。そしてこれほど厄介なものもない。
己のみが正しいと強烈に信じ、その思う道を暴走する。しかし、これはやはり一種神がかり的な神聖さなのである。理想のみに生きるべきという望んでも詮ない王道を夢見させる、仏の使いでもあろう。

という訳で、日本の歴史において少年はどう捉えられていたかについて考察……できるかどうかは分からんが。いざ久々にまじーめに日本史を語らん。


現代人が一番分かりやすいのは稚児行列でしょう。幼い子供が仏様のお誕生日にわらわらぞろぞろと歩く、あれです。
この稚児、詳しく調べていくと、まあまあ……という役割を負わされていたりするのですが、それは好奇心と時間のおありになる方にはお調べいただく事と致しましょう。

キリスト教の神と日本の神はずいぶんと立ち位置が異なる様です。
キリスト教は唯一絶対の存在、対して日本はそこらへんにどこでもいる八百万の神。先ごろ大ヒットした歌がありますが、本当に雪隠にも神さまはおられるのであります。
そして、日本の神はけっこう気さくで人間くさい。
同じ人間くさい神でも、ギリシャ神話の神々には非常に肉体を感じるのですが、日本の神はどこか風の様に透き通っていながら親しみを抱かせる、そんな感じがします。

それで少年はどーした。うっかり忘れるところであった。。
少年というのはいまだ男性ではなく、かといって女性でもない、という、性をも越境できる者として捉えられていました。つまりはこれが少年神格視の源流。人間なんだけれど人間じゃない、どこか透き通った不安定な存在、それが日本史の、明治以前の日本における少年の扱われ方であります。
不完全なものを日本人は好みますからねえ。日光東照宮の逆さ柱なんて、その代表的なものじゃないかな。『満は損を招き~』といったところ。ま、この言葉の出典は中国の書物ですけれど。
どうして少年が男性ではないんかい? というのは、私にも何となく、という感覚でしか分かりませぬ。が、少なくとも「むくつけき」という枕詞は少年には似合わぬ気が致します。

また、いにしへ人いわく、美少女よりも美少年の方がより神聖な気がする、のだそうで。
私もさう思ふ(笑) 近頃の美少女アイドルはみんな同じような甘ったれた喋り方をするのが気味悪い。J系も媚びていない訳じゃないし、そもそもジャリに興味はないのですが、何というか、少年の方がまだまし。爽やかさがある。
生物学上、女性は体力腕力知力より見た目の可愛さで勝負するのだろうから、ある程度は仕方ないと思いますが。
……とてつもなくどうでもいい話をしてしまった。。


日本人は自然を尊び、四季折々の景色を愛でて寄り添う事を選びました。
だからこそ人びとは木々に、土に、風に、道端の小さな石にさえ神を見たのでしょう。そしてそれこそが少年神格視の源だと、私は思います。
共に戦場へ向かう、そんな意味でも少年は便利だったので……ゐやゐや、やつがれは何も申してはおりませぬー(汗)
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