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2011.02.05 江です♪


今ちょうど大河ドラマは江が主人公です。
なので、今回は私の大好きな会津と絡めて保科正之の事を。写真は会津若松城です。


お江がいなければ恐らく保科正之は存在しなかったでしょう。
人物自体はいても、松平正之か、はたまた徳川正之か、事によると将軍となっていたかもしれません。

理由を言ってしまうとかなりのネタバレになって大河ドラマがつまらなくなる可能性もあるので、ひとまず江さんの話はここでおしまい。タイトルが羊頭狗肉っぽいわあ。。でも意志は変えないんだもん。


で、保科正之である。
会津初代藩主にして神道に通じ、民衆に土津公(はにつこう)と呼ばれ親しまれる人物。
あまりに人物が出来過ぎていて、物語にしづらい、と信州高遠の学芸員さんが笑っておられたが、確かに恐ろしく頭の切れる人であったらしい。いやいや、ぷち切れる訳じゃあありません。

現在、江戸城に天守閣がないのもこの保科正之のお陰。所為、ではないのであります。
その原因から振袖火事とも呼ばれる明暦の大火の折に江戸城天守閣は炎上、以後再建される事はなかった。
再建の動きもあったのですが、天守閣はこの泰平の世においてもはや無用の長物、その様な所に大事な予算を使うべきにはあらず、と進言したのが保科正之。
実に合理的で冷静な切れ者である。見習いたまへ、現代人よ。

正之はまたこの大火の混乱のさなか、江戸城の米をすべて守り切った。民衆に持ち出させる事により、機動力を最大限に高めて食糧資源をまるで無駄にしなかったのです。エコだねえ。


うーむ、シビレル。頭のよい人物のエピソードが何よりのご馳走だ。

会津藩家訓十五ヶ条を制定したのも保科正之である。家訓は、かくん、ではなく、かきん、と読む。どちらにしろ脱力しそうな擬態語や擬音語に見えてしまうんですが。
この内容、いちいち書き出すとかなり疲れるので省略。
この家訓から受け継がれる会津武士道というのは実に真っ直ぐで清々しく、凛々しい。しかし、この気風が幕末の会津戦争の悲劇を招いたのかとも思い、切なくなります。

家訓からはかなり時代が下りますが、藩校日新館で教えられていた項目をいくつか上げてみよう。

年上の人を尊敬し、逆らわぬようにしなさい。屋外でものを食べてはなりません。道で人に会ったら、誰であろうときちんと挨拶なさい。
……あ、駄目だ、もう思い出せない。。そもそも言葉も内容だけ捉えたかなりいい加減なものだし。
そしてこれらは、ならぬことはならぬのです、で締めくくられる。

そう、ならぬことはならぬのです。融通がきかないんです。これが会津の気風であり、美徳とも脆さともなる、それが故に人々を惹き付けてやまない会津武士道の姿なのである。


先ほど何気なく信州高遠の話をしてしまったけれど、保科正之の築き上げた会津武士道はこの信州高遠に由来すると言われます。

諏訪上社大祝(神官の最高位)の血を引く高遠氏が滅亡し、武田の治世となり、更に信長に攻め滅ぼされた時、最後まで勇猛果敢に戦ったのが高遠武士団だったという。
身なりなどより武芸を重んじ、江戸期に入るとなぜか何代も養子が必要となってそのお礼金で常に藩内が貧乏だった為に、ぼろは内藤下がり藤、とまで揶揄された高遠藩は、しかし武勇に長けた猛者揃いだった。ちなみに新宿御苑は高遠藩中屋敷だったそうだぞー。
正之はここに養子に入って保科正之となるのだが、ここにいた歳月が保科正之の、ひいては会津、そして幕末の徳川幕府の運命をも決定したと言っていいだろう。

うーん。。。会津に関して話し出すときりがないや。
荒城の月のエピソードとか、白虎隊とか、東山温泉とか、にしんの山椒漬けとか、たくさん書きたい事はあるけれど、もうこのあたりにしておきましょう。

よくぞここまでお付き合い下さいました、感謝感激飴雛あられ。
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